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終章:永遠の夏

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-02 06:18:05

 二十八年ぶりに訪れた村は、思ったより変わっていなかった。

 田んぼがあり川があり山々が連なっている。祖父母はもういない。でも家はまだそこにあった。誰かが管理してくれているようだった。

「お父さん、ここで何したの?」

 十歳の息子、大地が聞いた。

「友達と遊んだんだ。この村のいろんな場所を冒険した」

「その友達、今どこにいるの?」

 健太は空を見上げた。入道雲があの夏と同じように浮かんでいた。

「ずっとここにいるよ。この村のどこかに」

 二人は川辺に行った。柳の木はまだそこにあった。川の水は相変わらず透き通っている。

「きれいな川だね」

 大地が言った。

「うん。お父さんが子供の頃もこうだった」

 健太は川面を見つめた。そこに十二歳の自分と遼の姿が映っている気がした。笑いながら水を掛け合っている二人の少年。

「お父さん、何見てるの?」

「……思い出だよ」

 次に二人は丘に登った。あの丘だ。

 草の上に座ると大地が言った。

「お父さん、なんか変な感じがする」

「どんな?」

「なんか誰かがいるみたいな」

 健太は微笑んだ。ポケットの中にはあの青い羽根がある。二十八年間、ずっと持ち歩いていた。

 風が吹いた。稲穂が揺れた。遠くで蝉が鳴いている。

 その時、健太には聞こえた。風の中に懐かしい声が混じっているのが。

「健太」

 振り返っても誰もいない。でも確かに聞こえた。

「遼」

 健太は呟いた。大地には聞こえないように小さく。

 風が応えるように強く吹いた。

 健太は目を閉じた。瞼の裏に十二歳の夏がよみがえる。蛍の光、夕立の匂い、星降る夜。そして遼の笑顔。

 目を開けると大地が不思議そうな顔で健太を見ていた。

「お父さん、泣いてるの?」

「……いや、ホコリが目に入っただけだよ」

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  • 夏の終わりに君がいた ~永遠の夏、幻の少年~   終章:永遠の夏

     二十八年ぶりに訪れた村は、思ったより変わっていなかった。 田んぼがあり川があり山々が連なっている。祖父母はもういない。でも家はまだそこにあった。誰かが管理してくれているようだった。「お父さん、ここで何したの?」 十歳の息子、大地が聞いた。「友達と遊んだんだ。この村のいろんな場所を冒険した」「その友達、今どこにいるの?」 健太は空を見上げた。入道雲があの夏と同じように浮かんでいた。「ずっとここにいるよ。この村のどこかに」 二人は川辺に行った。柳の木はまだそこにあった。川の水は相変わらず透き通っている。「きれいな川だね」 大地が言った。「うん。お父さんが子供の頃もこうだった」 健太は川面を見つめた。そこに十二歳の自分と遼の姿が映っている気がした。笑いながら水を掛け合っている二人の少年。「お父さん、何見てるの?」「……思い出だよ」 次に二人は丘に登った。あの丘だ。 草の上に座ると大地が言った。「お父さん、なんか変な感じがする」「どんな?」「なんか誰かがいるみたいな」 健太は微笑んだ。ポケットの中にはあの青い羽根がある。二十八年間、ずっと持ち歩いていた。 風が吹いた。稲穂が揺れた。遠くで蝉が鳴いている。 その時、健太には聞こえた。風の中に懐かしい声が混じっているのが。「健太」 振り返っても誰もいない。でも確かに聞こえた。「遼」 健太は呟いた。大地には聞こえないように小さく。 風が応えるように強く吹いた。 健太は目を閉じた。瞼の裏に十二歳の夏がよみがえる。蛍の光、夕立の匂い、星降る夜。そして遼の笑顔。 目を開けると大地が不思議そうな顔で健太を見ていた。「お父さん、泣いてるの?」「……いや、ホコリが目に入っただけだよ」

  • 夏の終わりに君がいた ~永遠の夏、幻の少年~   第五章:夏の終わり

    一、残された日々 真実を知ってから、健太と遼の時間はより濃密なものになった。 二人は村中を駆け回った。まだ行ったことのない場所、まだ見たことのない風景、まだ経験したことのないすべてを求めて。 山の奥深くに分け入って、誰も知らない渓谷を見つけた。滝の裏側に回り込んで、水のカーテンの向こう側から世界を見た。夜明け前に起きて、朝日が山の端から昇る瞬間を見た。 すべてが特別だった。最後になるかもしれないから。 ある日、遼が言った。「健太、俺の話聞いてくれる?」 二人は例の丘に座っていた。「俺ね、死んだときのこと覚えてるんだ」 健太は黙って聞いていた。「川に落ちて、流されて。必死で岸に上がろうとしたけど無理だった。体が冷たくなっていくのがわかった」 遼の声は静かだった。「でも不思議と怖くなかった。ああ、これで終わりなんだなって。ただ一つだけ後悔があった」「何?」「夏が終わっちゃうなって。まだやりたいことがいっぱいあったのに。まだ見たい景色があったのに。まだ誰かと笑いたかったのに」 遼は空を見上げた。「その思いが残ってたんだと思う。だから俺、消えられなかったんだ。四十年以上もこの村をさまよってた」「寂しくなかった?」「最初はすごく寂しかった。でも時間の感覚がなくなっていって。ただ夏の記憶の中を漂ってるような感じだった」 遼は健太を見た。「でも健太が来てくれて、俺はまた形を持てた。また誰かと話せた。また笑えた。これ以上の幸せはないよ」「俺も」 健太は涙をこらえながら言った。「俺も遼に会えて本当によかった」 二人は抱き合った。遼の体は冷たかったが確かにそこにあった。「ありがとう

  • 夏の終わりに君がいた ~永遠の夏、幻の少年~   第四章:祭りの夜

    一、盆踊り 八月十五日、村の盆踊りの日がやってきた。 村の小さな広場に櫓が組まれ、提灯が揺れていた。太鼓の音と盆踊りの唄が響いている。浴衣を着た人々が輪になって踊っている。 健太も祖母に浴衣を着せてもらい、祭りに出かけた。遼を探したが人混みの中では見つからなかった。 屋台が並んでいた。かき氷、焼きそば、金魚すくい。懐かしい祭りの匂いが漂っている。健太はかき氷を買って食べながら、遼を探し続けた。「健太くん、お友達と一緒じゃないの?」 祖母が聞いた。「友達?」「ほら、毎日一緒に遊んでる子。川の方から帰ってくるの見てたよ」 健太は答えに困った。遼のことをどう説明すればいいかわからなかった。「あの子ね、なんだか懐かしい感じがするのよ」 祖母は遠い目をして言った。「昔この村にいた子に似ているの」 健太の心臓が大きく跳ねた。「誰に?」「遼くんっていう男の子」 やはり。健太の予感は正しかった。「その子のこと教えて」 健太は思い切って聞いた。祖母は少し躊躇したが、やがて話し始めた。二、祖母の話 祭りの帰り道、祖母は昔話を始めた。「おばあちゃんがまだ若かった頃ね、この村に遼くんって男の子がいたの」 健太は黙って聞いていた。「とても不思議な子でね。この村のことを何でも知っていて、子どもたちの人気者だったの。秘密の場所をたくさん知っていて、みんなを連れて行ってくれたわ」 祖母の声が少し震えた。「でもね、ある夏の終わりに川で溺れて亡くなってしまったの。まだ十二歳だった」 健太は立ち止まった。頭の中が真っ白になった。「…&

  • 夏の終わりに君がいた ~永遠の夏、幻の少年~   第三章:夢と現実の間

    一、雨の午後 ある日の午後、突然の夕立がやってきた。 二人は神社の軒下に逃げ込んだ。雨は激しく地面を叩き、雷が遠くで鳴っていた。神社の境内は無人で、静寂と雨音だけがあった。「夕立って好き?」 遼が聞いた。「わかんない。濡れるのは嫌だけど」「俺は好きだな。夕立の間って時間が止まってるみたいでしょ。どこにも行けないし、何もできない。ただ雨を見てるしかない」 確かにそうだった。雨音だけが響く中で、世界が静止しているようだった。「健太は東京に帰りたい?」 突然の質問に、健太は答えられなかった。「……わかんない」「そっか」 遼は雨を見つめていた。その横顔がなぜか大人びて見えた。「俺はずっとここにいるよ。この村から出たことない」「一度も?」「一度も。でもそれでいいと思ってる。この村には俺の好きなものが全部あるから」 健太は遼の横顔を見た。遼の目に何か寂しさのようなものを見た気がした。「遼には家族はいないの? 一度も会ったことないけど」 遼は少し黙ってから答えた。「……いないよ。ずっと昔から一人なんだ」「寂しくない?」「最初は寂しかった。でも慣れた。それに」 遼は健太を見て微笑んだ。「今は健太がいるから」 その言葉に健太の胸が締め付けられた。遼の孤独が突然理解できた気がした。この村で一人で過ごしてきた時間。誰かが来るのを待っていた時間。「俺もずっといられたらいいのにな」 健太は思わず言った。「でも無理なんだ。九月になったら東京に帰らなきゃいけない」「

  • 夏の終わりに君がいた ~永遠の夏、幻の少年~   第二章:川辺の少年

    一、出会い 翌日の午後、健太は村を探検することにした。 祖母に「川には気をつけるんだよ」と言われながら、麦わら帽子をかぶって外に出た。八月の太陽は容赦なく照りつけ、アスファルトが揺らめいて見える。でも木陰に入ると嘘のように涼しかった。 村は思ったより小さかった。商店が二軒、小さな郵便局、神社、寺。あとはほとんど田んぼと畑と民家。でも健太には新鮮だった。すべてが東京と違っていた。 田んぼの畦道を歩いていくと、やがて川に出た。それほど大きくない川だったが、水は透き通っていて底の石まではっきり見える。川辺には柳の木が並び、その影が水面に揺れていた。 健太は川辺に座って、流れる水を見つめた。水の流れを見ているとなぜか心が落ち着く。古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは言った。「人は同じ川に二度入ることはできない」と。川は常に流れ、変化している。同じように見えても、もう同じ水ではない。時間もそうなのかもしれない。 その時だった。「何してんの」 声がして振り返ると、同い年くらいの少年が立っていた。 日に焼けた肌、少し長めの黒い髪。白いシャツに半ズボン、裸足。どこか懐かしいような、初めて会ったような不思議な感覚だった。「君、東京から来た子でしょ」「……うん」「知ってる。おばあちゃんの家に来てるんだよね。俺、遼」 少年——遼は川に石を投げた。石は水面を三回跳ねて、向こう岸近くで沈んだ。「この村のこと、俺が教えてあげるよ」 遼は振り返って笑った。その笑顔がなぜか夢で見たことがあるような気がした。でも夢の内容は思い出せない。「俺、健太」「健太ね。よろしく」 遼は手を差し出した。健太はその手を握った。遼の手は温かくて、確かにそこにあった。「今から面白い場所に連れてってあげる。ついてきて」 健太は少し躊躇したが、遼の笑顔を見ているとなぜか信じられる気がした。二人は川沿いの道を歩き始めた。「この村好き?」 遼が聞いた。「まだよくわかんない。昨日来たばっかりだから」「そっか。でもすぐ好きになるよ。この村はいいところだから」 遼の言い方には不思議な確信があった。まるでこの村のすべてを知っているような口ぶりだった。「遼はずっとこの村にいるの?」「ずっといるよ。生まれてからずっと」「学校は?」「……学校ね」 遼は少し考えるような表情をして、

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    一、東京を離れる日 一九八九年、八月一日。 十二歳の健太は新幹線の窓に額をつけて、流れていく景色を見ていた。東京のビル群が遠ざかり、やがて田園風景に変わっていく。隣に座る母は時折ハンカチで目元を押さえていた。 両親が別々に暮らすことになった。大人たちはそれを「距離を置く」と言ったが、健太にはその意味がよくわからなかった。わかっていたのは、この夏自分は祖父母の家で過ごすということ。そして九月になったら何かが変わっているということだけだった。 窓の外を入道雲が追いかけてくる。白く巨大な雲はまるで別の世界への入り口のように見えた。健太はその雲を見つめながら思った。あの雲の向こうには何があるのだろう。もしかしたら今と違う自分がいるのかもしれない。両親が笑顔で暮らしている世界があるのかもしれない。 量子力学の多世界解釈によれば、この世界は無数に分岐している。あらゆる可能性が実現した世界が並行して存在する。両親が離婚しなかった世界。自分が生まれなかった世界。すべてが完璧にうまくいった世界。そしてすべてが破滅した世界。 でも健太はまだそんなことを知らない。ただ漠然と感じているだけだ。世界にはもっと違う可能性があったはずだと。「健太、おじいちゃんとおばあちゃんによろしくね」 母の声で現実に引き戻される。「うん」「楽しく過ごすのよ。心配しないで」 母は笑顔を作ろうとしているが、その目は泣いている。健太は何も言えなかった。 新幹線を降り、在来線に乗り換え、さらにバスに揺られて二時間。景色はどんどん田舎になっていく。建物が少なくなり、田んぼが増えていく。山が近くなり、空が広くなる。 バスの窓から見える景色に、健太は不思議な既視感を覚えた。ここに来たことがあるような気がする。でもそんなはずはない。祖父母の村に来るのは初めてのはずだ。 心理学でいうデジャヴュ、既視感。脳が何らかの理由で「これは見たことがある」という誤った信号を送る現象だ。あるいは——夢で見た風景が現実と重なる瞬間かもしれない。 バスは山道を登っていく。カーブを曲がるたびに、谷底の川が見える。透き通った水が、太陽の光を反射してきらめいている。 そしてバスは、小さな集落に到着した。二、山あいの村 祖父母の家は山と山に挟まれた小さな村にあった。 バス停に降り立った瞬間、空気が違うことに気づい

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